「おいしい」は、味だけじゃない。― 文脈効果から考えた、子育てとグリーフケア

最近、「文脈効果」という言葉を知りました。
私たちは、目の前にあるものを、それだけで感じたり判断したりしているわけではなく、そのときの環境や前後の出来事、周りにいる人などによって、感じ方が変わることがあるそうです。
たとえば、食事。
同じものを食べても、
誰と食べたのか。
どこで食べたのか。
どんな気持ちで食べたのか。
そんな「味以外のもの」によっても、おいしさの感じ方は変わります。
それを知って、最初に思ったのが、
うちの息子のチャーハンもそうなのか?
ということでした(笑)。
「お母さん、チャーハン屋さんやったら?」
8歳の息子は、私のつくるチャーハンをものすごく褒めます。
「お母さん、チャーハン屋さんやったら?」
そこまで言う?
息子によると、お店のメニューは、
チャーハン、餃子、麻婆豆腐。
この3つがあればいいらしい。
「じゃあ、スープも考えようね」
と、すっかり開店する気になって話しています(笑)。
学童でお弁当が必要な日も、
「何がいい?」
と聞けば、ほぼチャーハンかオムライス。
そこまで褒められると、
私のチャーハン、本当にそんなにおいしいのか?
と思います。
そして、だんだん私まで、
「チャーハン屋さんか……」
と、その気になってくる(笑)。
でも「文脈効果」という言葉を知って、ふと思いました。
もしかしたら息子が「おいしい」と感じているものの中には、チャーハンそのものだけではなく、
「お母さんがつくった」
ということも含まれているのかもしれません。
いつもの家。
いつもの食卓。
いつものお母さん。
「できたよ」と出てくるチャーハン。
「おいしい」と言えば、お母さんが喜ぶ。
またつくってもらう。
そんな記憶も一緒になって、息子にとっての「お母さんのチャーハン」になっているのかもしれません。
……ということは、私が本当にチャーハン屋さんを開いたら、
「あれ?」
と言われる可能性もあります(笑)。
危ない、危ない。
「自分たちでつくった」は、おいしい
昨年、息子の同級生の男の子3人で、我が家で料理をしたことがあります。
子どもたちが自分たちでつくり、最後はママたちに食べてもらいました。
おいしかった。
でも、あの日のおいしさも、料理の味だけではなかったのでしょうね。
友達と一緒につくった。
自分でできた。
ママたちに食べてもらった。
「おいしい」と言ってもらった。
きっと私たちは、
「自分たちでつくった」という経験まで、一緒に味わっていた。
「やればできる」
そんな経験を、少人数でもいいから、また子どもたちとできたらいいなと思っています。
誰かと一緒に食べる「共食」
食について調べていると、「共食」という言葉もあります。
誰かと一緒に食事をすることです。
今は、大人は仕事、子どもは学校や塾、習い事。
家族それぞれに予定があって、毎日みんなで同じ時間に食卓を囲むことが難しい家庭も珍しくありません。
一方で、一人で食事をする「孤食」という言葉も聞くようになりました。
もちろん、一人で食べることそのものが悪いわけではありません。
一人でゆっくり食べたい日だってあります。
家族の生活時間が違えば、仕方のないこともあります。
でも、
「誰かと一緒だから食べられる」
ということもあるのではないでしょうか。
「これ、おいしいね」
「今日はどうだった?」
そんな何気ない会話がある。
いつもより食べていないことに誰かが気づくこともある。
反対に、
「今日、すごく食べるね」
なんて笑うこともある。
食事は栄養をとるだけの時間ではなく、誰かの様子を知り、同じ時間を過ごす場にもなるのだと思います。
そして、ここまで考えたとき、
私が「花はすグリーフケアカフェ」でお昼ご飯やお茶の時間を大切にしている理由にもつながりました。
「一緒に食べればいい」とも思っていません
ここまで「共食」について書いてきましたが、だからといって私は、
「家族なら、みんなで食卓を囲んだ方がいい」
と単純には思っていません。
なぜなら、私自身、離婚した夫との食事が苦痛だった時期があるからです。
いつの間にか話が変わり、突然怒鳴られる。
私には、何がそんなに怒ることなのか分からない。
どこに導火線があるのか分からない。
息子の前でもそれは起こりました。
そのうち私は、食事中の会話をしなくなりました。
私が会話に入ると、また何かがおかしくなって怒鳴られるかもしれない。
だったら黙っていた方がいい。
そんなふうになっていきました。
日頃ならマスクをしていることで、少し自分を守れていた時期もありました。
でも、食事中はマスクを外さなければならない。
今振り返ると、私にとってあの食卓は、ほっとする場所ではなく、いつ何が起きるか分からない緊張する場所になっていたのだと思います。
だから私は、
「一人で食べる=よくない」
「家族で食べる=よい」
とは思いません。
一人で安心して食べるご飯の方が、誰かに怯えながら囲む食卓より、私はずっと楽でした。
大切なのは人数ではなく、
「安心して食べられる場所かどうか」
なのではないでしょうか。
だからこそ私は、花はすグリーフケアカフェでも「みんなで食べること」そのものを目的にはしたくありません。
話してもいい。
話さなくてもいい。
食べてもいい。
食べられなくてもいい。
そこにいる人が、誰かの顔色をうかがわずにいられること。
温かい飲み物を手にして、ゆるゆると肩の力を抜いておしゃべりすること。
私は、そんな「安心の場」をつくりたいのだと思います。
なぜ、グリーフケアカフェで一緒に食べるのか
花はすグリーフケアカフェは、流産や死産など、大切な存在との別れを経験した方が集まる場所です。
でも、
「さあ、あなたの悲しみについて話してください」
という場所にはしたくありません。
初めて来る場所。
初めて会う人。
そして、とても大切なことを話すかもしれない場所。
緊張して当然だと思うのです。
だから、一緒に何かをつくったり、
お茶を飲んだり、
お菓子を食べたり、
お昼ご飯を食べたりします。
温かい飲み物を手に持って、
「どうぞ」
と渡される。
一口飲んで、ほっとする。
目の前にはお菓子がある。
「これ、おいしいね」
誰かが言う。
「本当、おいしい」
誰かが答える。
それだけでもいい。
沈黙を、埋めなくてもいい
食べ物や飲み物が間にあることのよさは、もう一つあります。
ずっと話していなくてもいい。
会話が途切れたら、お茶を飲む。
お菓子を一つ取る。
ご飯を食べる。
誰かの話を聞いているだけでもいい。
沈黙があっても、
「何か話さなくちゃ」
と、無理に埋めなくていい。
私は、これも大切だと思っています。
グリーフケアでは、話すことが大切だと言われることがあります。
私自身も、
「話す=離す、放す」
という言葉を大切にしています。
でも、
話さなければならないわけではありません。
話したいときには話す。
話したくないときには話さない。
ただ一緒にご飯を食べる。
それも、その人にとって大切な時間になることがあります。
「おいしいね」なら、共有できる
悲しみは、同じ経験をしていても同じではありません。
感じ方も違います。
亡くなった子どもへの思いも違います。
家族との関係も違います。
だから、
「あなたの気持ち、分かるよ」
とは簡単に言えないことがあります。
でも、同じものを食べて、
「おいしいね」
なら、共有できることがあります。
悲しみについて話す前に、
「このお菓子、おいしいね」
から始まってもいい。
そこから、
「最近どう?」
になるかもしれない。
ならなくてもいい。
私は、そんな時間が好きです。
グリーフケアは、話を聴くことだけではない
「グリーフケア」という言葉から、
悲しい話を聞くことを想像する方もいるかもしれません。
でも私は、それだけではないと思っています。
お茶を飲む。
一緒に食べる。
何かをつくる。
笑う。
黙っている。
誰かの話を聞く。
そして、ときどき、ぽろっと自分の言葉が出てくる。
「話してもいい。話さなくてもいい。」
その人が、その人のままでいられる場をつくる。
食事やお茶は、そのために私たちの間にそっといてくれるものなのかもしれません。
中身と同じくらい、「食べる場」も大切に
食事というと、
「何を食べるか」
「栄養は足りているか」
を考えます。
もちろん、それは大切です。
でも、文脈効果という言葉を知って、改めて思いました。
「何を食べるか」と同じくらい、
「どこで、誰と、どんな気持ちで食べるか」も大切なのかもしれない。
息子にとっての、お母さんのチャーハン。
子どもたちにとっての、自分たちでつくった料理。
花はすで、誰かと一緒に食べるお昼ご飯。
どれも料理そのものだけではなく、その周りにある時間まで一緒に味わっているのでしょう。
だから私はこれからも、
温かい飲み物を用意して、
お菓子を置いて、
一緒にご飯を食べられるときには食べて、
「おいしいね」
と言える時間を大切にしたい。
そして我が家では――
今夜も息子にチャーハンを褒めてもらいながら、
もうしばらく、
「私、チャーハン屋さんできるかも」
と勘違いしておこうと思います(笑)。
※文脈効果とは
同じものでも、その前後の情報や周りの環境、そのときの状況などによって、感じ方や判断が変わることをいいます。
食事でいえば、料理そのものだけではなく、「どこで食べたか」「誰と食べたか」「どんな気持ちだったか」なども、おいしさの感じ方に影響することがあります。


