「正解を選ぶ力」ではなく、「選んだものを自分の人生にしていく力」

右と左と靴が違う

先日、子ども向けのポスター制作の講座をしていたときのことです。

私は子どもたちに、

「このポスターは文字を描いてもいいし、描かなくてもいいよ」

と伝えました。

文字入れするかどうか選択できる公募内容でした。

自分が表現したいと思った方を、自分で選んでほしかったからです。

ところが、一人の子がその場でお母さんにLINEをして、

「文字を描かなくていいの?」

と確認していました。

私はちょっとびっくりしました。

「今、先生がどちらでもいいと言ったのに、どうしてお母さんに聞くんだろう?」

そのときは、そんなふうに思いました。
もしかして、日ごろから物事に対して親が先回りして決める習慣がある、

過干渉の傾向があるのかなと感じました。
また、子ども自身が責任を負いたくない傾向があるのかなとも。

「参照視」という言葉を初めて知りました

その後、私は「参照視(さんしょうし)」という言葉を知りました。

子どもは、初めてのことや、どうしたらいいのか迷う場面に出会ったとき、信頼している大人の表情や反応を見て、自分がどう行動するかの手がかりにすることがあるそうです。

「これ、していい?」

と言葉で聞くこともあれば、親の顔をちらっと見ることもあります。

今回の子の行動が心理学でいう参照視そのものだったのかは、私には分かりません。

でも、この言葉を知って、あの日のことを思い出しました。

子どもが何かを選ぶとき、その子は誰の顔を見ているのだろう。

そして、

自分で選ぶって、どういうことなんだろう。

そんなことを考えるようになりました。

小さな「自分で選ぶ」を大切にしたい

ウェルビーイングについて学んでいても、自分で決めているという「自律性」は、人の幸福を考えるうえで大切な要素の一つとされています。
自己肯定感も高くなると言われています。

だから私は、息子に子どもの頃から、

「自分で選ぶ」

という小さな経験をさせてきました。

今日着る服。

使いたい色。

やってみたい遊び。
今テレビを消していいかどうか。

何を描くのか。

文字を描くのか、描かないのか。

大人から見れば、本当に小さな選択です。

でも、そんな小さな選択を積み重ねながら、

「私はこれが好き」

「私はこっちにしたい」

「私はこう思う」

という、自分自身の感覚を知っていくのではないでしょうか。

左右違う靴で、お散歩へ

そういえば、息子がまだ小さかった頃。

左右で違う靴を選んで履いたことがありました。
当時はまっていた電車になぞらえて
青はソニック、黄色はドクターイエローでした。

しかも、ぬいぐるみを抱っこして、そのままお散歩へ。
他の日は赤ちゃん人形を背中にからってお散歩へ。

私は止めませんでした。

「まあ、いいか。いつか笑い話になるだろう」

と思って、写真まで撮っています(笑)。

大人から見たら、

「靴、左右違うよ」

と直したくなるところだったかもしれません。

でも、本人がそれを選んだのだから、それでいい。

歩きにくかったら、それも経験です。

「次は同じ靴にしよう」と思うかもしれないし、

「左右違っても平気!」

と思うかもしれない。

それも本人が経験して分かること。

今振り返ると、私があのとき大切にしたかったのは、

「自分で選んでいい」

という小さな自由な選択だったのかもしれません。

大人だって選ぶことに疲れます(笑)

一方で、人は毎日、とてもたくさんの選択をしながら暮らしています。
一日で35000回決断しているそうです。

何を食べる?

何を着る?

どこから始める?

今する?あとにする?

一つひとつは小さなことでも、選ぶことが続けば疲れます。

いわゆる「選択疲れ」です。

これは、私もよく分かります。

私は木育やポスター制作など、子どもたちとのワークショップへ行く日は、

オーバーオールを着る

と決めています。

理由は簡単。

もともとファッションに興味がない私にとって
着ていく服を考えるのはとても疲れるからです(笑)。

動きやすい。

汚れてもいい。

木育にも工作にも似合う。

だったら、もうこれでいい。

つまり私は、

「選ばないこと」を自分で選んでいる。

これも一つの選択ですね。

だから、子どもにも何でもかんでも「あなたが決めなさい」とする必要はないと思っています。

安心して大人に任せられることもありながら、

「ここは自分で決めていいよ」

という場面を少しずつ増やしていく。

そのくらいがいいのかもしれません。

木育

2026年2月 八代市にて

選んだものが必ずしも「正解」とは限らない

そして、もう一つ大切にしたいことがあります。

自分で選んだからといって、その選択がいつも「正解」になるとは限りません。

やってみたら違った。

失敗した。

思っていた結果にならなかった。

そんなことは、大人になった今でもたくさんあります。

私自身、離婚するときには、手続きも多く、考えること、決めなければならないことが山ほどあって、本当に面倒で疲れました。
離婚は正解だったのか不正解だったのかいまだに思い返すときがあります。

でも不思議なことに、そんな最中でも心のどこかで、

「これもいつかネタになるな」

と、ちょっとワクワクしている自分がいました(笑)。

もちろん、つらい出来事を無理に「よかったこと」にする必要はありません。

悲しいときは悲しい。

失敗したら落ち込む。

腹が立つことだってあります。
その状態を否定せず、認める。

そして、起きてしまったことから、

「私はここから何を学ぼうか」

と考えます。

何事も思いどおりにならなかった選択も、いつか自分の経験として誰かの役に立つかもしれない。

笑い話になるかもしれない。

新しい仕事につながるかもしれない。

明日の自分を助けてくれるかもしれない。

そう考えると、

選択に必要なのは、いつも正解を当てる力ではないのかもしれない。

と思うようになりました。

選んだあと、どう生きるか

人生には、選択がたくさんあります。

そして、選んだ時点では、それが正解なのかなんて分からないこともたくさんあります。

だったら大切なのは、

「正解を選ぶ力」ではなく、
「選んだものを自分の人生にしていく力」。

なのかもしれません。

失敗は成功の元 と言います。

選んでみる。

やってみる。

違ったら考える。

失敗したら学ぶ。

そして、また選ぶ。

子どもたちにも、小さな頃からそんな経験をたくさんしてほしいと思います。

「これ、していい?」

と大人の顔を見たときには、

「あなたはどうしたい?」

と聞いてみる。

そして自分で選んだら、

「いいね。やってみよう」

と背中を押してあげる。

安心して大人を振り返ることができて、

そこから少しずつ、自分の足で進んでいけるようになったらいい。

私自身も同じです。

50代になっても、まだまだ選ぶこと迷うことばかりです。

そして、これからも間違えると思います(笑)。

それでも、

自分で選べること。
人と違っていても、それを楽しめること。
思いどおりにならなくても、そこから学び、明日の糧にすること。

そんな自分でありたいと思います。

左右違う靴を履いていたって、いいじゃない。

歩いてみて初めて分かることもある。

人生も、きっと同じです。

選んだあと、どう生きるか。
そして、その選択の意味付けがいいも悪いもできるのは自分のみです。

私は、そちらの方を大切にしていきたいと思います。